祖母の亡くなった日、父がその報せのため友人に宛てたメールは、有名な小説の冒頭から始まっていた。
『「今日、ママンが死んだ。」の心境です。』
そのメールを父は、友人だけでなく、私にも転送した。
「夕べ書いてたんだメール、読んどいて。」と言われて読んで、なぜ父が私にそれを転送したかも、夕べ夜中まで書斎にこもっていたのかも、寝る前に缶ビールを2本飲んだのかも解った気がした。
そのメールからは、母を亡くした息子の素直な気持ちと戸惑いと、感傷的になるまいという姿勢と、友人への信頼と、心遣いを感じた。
祖母の亡くなった時。そんな時に限って私は出先で携帯の電池が切れており、ふと友人宅で充電した途端、凄い量の「病院に来い」メールで、慌てて電車に飛び乗った。
病院に着いた頃、祖母は既に亡くなっており、車で自宅に帰るタイミングに、私はぎりぎり滑り込んだ形だった。
慌てていた事が、さらに気を動転させ、病院の駐車場で家族を見つけた瞬間、私はその場に泣き崩れた。
連絡とれるようにしてなくってごめんなさい。
心配かけてごめんなさい。
凄く走って疲れた。
独りで不安だった。
みんなを見つけて安心した。
おばあちゃん、死んじゃった。
感情が雪崩のようで、あんなに泣いたのは初めてかもしれなかった。
しかし、しばらくして、父の前であんなに取り乱してしまった事を情けなく思った。
祖母は晩年、脚が悪く、一緒に住む叔父一家と、うちで、交代でずっと介護をしてきた。
従兄弟も同居しているが、同性の孫が私だけで、さらに誕生日が一緒ということもあって、祖母は私に割と素直になってくれた。
だからという訳ではないが、私は日常的に祖母の世話をしていた。
夜中にベルが鳴って、トイレに行きたいと起こされて、寝ぼけながら祖母の部屋へ行くと、既に父が世話をしていたことがよくあった。
細く小さくなった祖母を、大きな体で大事そうに抱きかかえる父の背中は、今思うと、一生忘れられない光景の一つなのかもしれない。
晩年こそ介護が必要な体だったが、祖母は、若い頃は芸者だった。
しかも、美人で評判だったらしく、広告や映画に出た事もあったらしい。確かに、写真で観てもいつも綺麗で、スキがない。それでいて笑顔は優しく愛想がいい。立ち居振る舞いの美しい、カッコイイ女性だったようだ。
若かりし頃のそんな一面は、私は文字通り面影しか知らないが、自慢の祖母である。
年老いてからの祖母も、私にとってはとても美しい女性だった。
私は祖母が大好きだった。
そんな祖母が死んだ。
その日は一日、どうやっても涙が止まらなくて、ぼーっとして、父や母や家族に心配をかけたと思う。
父に目をやると、葬儀の日程についてや、和尚さんは誰を呼ぶとか、事務的な話ばかりで、ちっとも悲しむ暇などなさそうだ。
お葬式で飾る写真はとびきり若くて綺麗な時代のがいいんじゃないかな。
死んだ親父も隣に並ぶ写真は、一番綺麗なのが喜ぶだろ。
ほら、かのこ、観てご覧、おばあちゃんの若い頃の写真、綺麗だよ。
あの和尚さんの声がいいからお願いしようと思ったんだけど、いつも決まった和尚さんを呼ぶのが決まりらしいや。
でもいつもの和尚さんも、なかなかいい感じなんだよな。
こんなことを言っていたと思う。
少なからず、父にもショックや戸惑いや絶望感は在ったに違いないが、こんな時に、悲しみに耽るでもなく、無理して気丈に振る舞うでもなく、穏やかで、自然体だ。
小さい頃、道で死んでいた雀をみて、怖がって泣いていた私を、おいでおいで呼び寄せて、「ほら、観てみろ。雀の羽はこうなってるんだねー」と屍の羽を広げてみせてくれた父を、この時思い出した。
怖がってたら損だ、興味持てたら何でも楽しめるぞ、幼いながらにそう感じて、涙は止まり、すっかり雀の観察に夢中になったのを憶えている。
そもそも、よく考えたら怖くもないのに、なんで怖がったり泣いたりしたんだろう、とさえ感じた。
父には兄、つまり私にとっての叔父がいて、父と叔父は、幼い頃、とても裕福な家庭で育ち、発想も感性も、いい意味で世間と少しずれている。と私は思っている。
叔父は大学教授で、父は映像作家だ。
一般的に、という言い方が相応しいかは解らないが、雀の屍を前に怖がった幼い私のそれのように、人は、状況に対する感情や行動が、ある程度、用意されている気がする。
状況に対する感情の予定調和とでも言うべきか。
しかし、この兄弟には、昔から、そういった要素が見受けられない。予定調和ではなく、自分が感じたそのままに、本質的な部分を直視している印象だ。
言い換えてしまえばちょっとした変わり者なのだが。
祖母の写真を整理していたら、父と叔父が小学生の頃に家族旅行に行ったときのアルバムを見つけた。
「母と銅像の前で」「小熊にじゃれられる僕」「兄と弟、どっちがいい男だ」などど、いちいち説明やコメントやイラストが丁寧に書き添えられており、兄弟の仲の良さと、アカデミックさが滲み出たアルバムだった。
やっぱり、昔からちょっと変わった兄弟だったんだなと感じた。
叔父の息子、つまり私の従兄弟は、男二人兄弟。嘗ての父と叔父のアルバムを見ていると、まるで従兄弟たちを見ているようだった。
かと思えば、父の幼い頃の顔が私にそっくりだったり、弟にそっくりだったり、祖母の若い頃の写真が、私にそっくりだったり、脈々と、確実に受け継がれているDNAを実感しつつ、写真は沢山撮っとくべきだなと思ったりしていた。
叔父は、お清めの時から、ずっとカメラを回していて、粛々と執り行われる儀式を、父と交代で、興味深げにカメラにおさめ続けた。
端からすれば一見不謹慎ともとれるこの行為は、この兄弟にとっては、全力の餞で、供養で、子供たちを前にした父として、母の死を受け容れなければならない息子としての彼らにとっては極めて自然で真摯な姿勢なのだ。
私はそう思った。
だから、告別式の間は、私や従兄弟が交代でカメラを回した。
とはいえ、「母の死」という出来事は、おそらく無条件に悲しいもので、納棺の時に、祖母の額にお別れのキスをする叔父や、お通夜に来てくれるお客さんに、度々同じ祖母の思い出話しかしない父を見て、少し切なくなった。
一番悲しいのは父と叔父のはずなのに、自分はこんなに打ちのめされて、情けないや。
二人が少し気を抜けるように、ちょっとがんばろ。
そう思ったら、もう涙は出なかった。
夜中に、書斎から父が帰ってきたのは、もう夜中の3時を回っていたと思う。
部屋で眠っていた私は目を覚ましたが、声はかけなかった。
缶ビールのふたを開ける音が2回した。