下の親子の写真は、今から23年前に撮ったもの。
親父と私はお祭りが大好きで、東京23区や関東近辺または全国各地の
お祭りに出かけては、お神輿を担いでいた名物親子だった。
残念ながら写真を撮った6年後、親父は肝臓の病気で他界し帰らぬ人と
なってしまい、また、母も3年前に、心不全で他界した。
親父は、私が2歳の頃からお祭りに連れて行ってくれる様になり、
土・日曜日はいつも親父と一緒だった。
家にある親父の写真は、ほとんどが「お祭り」での写真。
親父は、私と一緒にお祭りに行くことを生き甲斐に感じていたと思う。
私は、3人兄弟の長男で、妹が2人。
妹達はきっと、私と親父の関係を羨ましく思っていたはずだ。
休みの日、私と親父は、朝早く家を出て「お祭り」に行き、帰りは遅い。
1日中、いつも一緒だったので、子供心にとても嬉しかった。
子供の運動会などの学校行事は欠席で母親任せだった親父だけれど、平日にお祭りがある時には、学校を休ませてでも私をお祭りに連れて行く程。
とにかく、親父のお祭り好きは半端ではなかった。
親父の周りには、いつでも人が集まり、賑やかだった。私は、親父の背中を見て、
「人との付き合い」を学んだ。「義理・人情」の熱い、風格のある自慢の親父だった。
この写真を撮ってもらったのは、私が思春期(中学2年生)の頃だったので、「お父さんと一緒に写真なんか撮れないよ・・・」と思いながら撮りに行ったのを、覚えている。
恥ずかしくて照れくさかったのでポーズも撮れなかったこの時のことは、今でも記憶に鮮明に残っている。
それが、親父と二人での最初で最後の写真。
出来あがった写真を見て、「お前は、ふてくされてる顔してるなぁ~」と親父が一こと言った。
2年後、私は高校入学し、硬式野球部に入部、3年間、白球を追い掛けていた。
その頃、お祭りに行くのをやめた親父は、母親と妹達と一緒に私の練習や 試合など、良く見に来てくれた。
父親の職業が「とび職」ということもあり、練習場のバックネット裏にある観客席などを良く修理しに来てくれた。
私は、高校生活3年間で3回、高校球児の憧れの「甲子園」にも行き、私たちの代には、選抜高校野球大会に出場し、準優勝という快挙を成し遂げる事が出来た。
「野球部父母会長」をやっていた親父は、甲子園のアルプススタンドで 「ねじりはちまきと半纏姿」で、手には扇子を持ち大声で応援をしてくれていた。
その姿は、今でも忘れられない。
その後、私は社会人になり、親父と酒を交わせるようになり、親父と昔の事を語りながら、 良く飲み、良く歌った。
ただ、親父とは1年間しか酒を交わすことが出来なかった。
それが心残りで、今でもカラオケを歌う際は、「親父の18番」でもある演歌を良く歌っている。
親父が亡くなって18年の月日が経ち、自分自身も親父になり、改めて 「うちの親父は偉大な人」だと痛感している。
あの時、私と親父と一緒に撮った写真が、二人で撮る「最初で最後の写真」になるとは思ってもみなかった。
この親子の写真は、私にとって、いや私たち親族にとって、「宝物」になっている。
本当に、「偉大な親父、鈴木勝司」でした。
息子 勝生より